『人の役に立つ』の証明は不可能である。厳密に言うならば、限りなく不可能に近い。証明不可能な事柄である『人の役に立つ』を求める事は、不可能の証明に挑む事に他ならない。不可能への挑戦はロマンへの憧れ。だから私は、人の役に立ちたい人というのは、並外れたロマンチストだと考えている。
①『人の役に立つ』がなぜ不可能かと言うと、私たち人間は時間の流れの中で生きている。自分がこの世を去った後の事を確認できない。だから、現時点では人の役に立っていても、それが時代の負の遺産になる可能性がある。というのが、まずある。
② タイムマシーンが実現し、自分がしたことの結果を未来で確認する事が出来るとする。しかしその場合、無数の時点を確認する必要があり、無数の時点を全て確認するのは不可能である。というのもある。
③『人の役に立つ』の確認時期を1点、本人が生きている間だけ、若しくは、数週間や数年、などに期間を限定するとする。この場合でも『人の役に立つ』が表す相手が限定されていない為、目の前の1人の役に立ったかのように見えても、その相手の周囲の人の役には立っていない可能性があること。それを確認するのは不可能に近い。というのがある。
ここまでの①~③は『役に立つ』の意味合いを定めなくても当てはまる事柄である。
次に『役に立つ』とは何なのかを考える必要がある。
いくつか挙げると、A. 人の心を満たす。B. 人に便利を提供する。C. 人の健康を促す。などがある。
因みに、『役に立つ』は英語で『Useful』。
英語を根拠の1つと考えて良いとすると、一番正解に近いのは B だと考えられる。
『役に立つ』とは『便利である』とする。
これを、『人の役に立ちたい』に当てはめるとこうなる。
『人にとって、便利な存在となりたい。』
『人に便利を提供したい。』
ここまでくると、『人の役に立つ』の証明が可能に見えてこなくもない。
「便利でした。」もしくは「あなたの存在が私にとって便利です。」その他、これと同じ意味合いの言葉を相手から得ることが出来たら、一応の証明はされる。と言える。
しかし現実には、これらの言葉を発する人は非常に少ない。同じ種類の生き物である人間に対して「あなたは私にとって便利です。」「あなたは私の役に立ってくれました。」という言葉以前に、そういった意を伝える事が良識として扱われないのが現代社会だからである。
『人の役に立ちたい』という概念がロマンそのものであるのは、不可能の証明に挑む事だけでなく、その背景となる世界も、現代的ではなくロマン派である。といった意味でも明白である。
さらに『便利』について考えていきたい。
便利とはなんなのか。
便利の基準は、人によって異なる。
なぜなら便利とは、目的達成への労力を省いたり、快適にするための手段だからである。
そして、目的も、省きたい労力も、何を快適とするかも、人によって異なる。
つまり、便利が何なのかを定義するのは不可能。と私は考える。
具体的な例を挙げようと思う。
自動車が良い例である。
自動車の所有は、日本国内では都市部ほど少なく、人口密度の低い地方にいくほど多くなる。地方にも様々あり、一家に1~2台ほどの所有が平均的な地域から、家族全員分(免許取得可能な年齢以上)の自動車を所有するのが珍しくない地域もある。
『移動に便利な自家用車』という文脈が成り立つ地域とそうでない地域がまずあり、次にどのような移動を便利と考えるか、というのが各個人にある。
バスやタクシーなどの利用も可能な地域に暮らし、徒歩や自転車での移動で日常的に体を動かす事をして健康を維持しつつ、必要な時だけ公共の乗り物を利用する。
といった個人にとっては、自動車は便利でないどころか、不要であり、持たされたなら負債にしかならない。
また、都市部の、地下鉄の駅と駅の距離が徒歩でも不便しない地域に暮らす人であっても、長距離の徒歩移動に不自由する体質や体調である場合、駐車場の使用代金がかかるとしても、無理によって生じる医療費や心身の苦痛による時間の浪費を考えると、自動車はとても便利で有益だと言える。
自動車は、ある人にとっては役に立ち、別のある人にとっては不利益となる。
実は、自動車を例に挙げたのには訳がある。
パソコンや冷蔵庫、洗濯機とは異なり、自動車は昔ほど多くの人にとって大人気の品ではない。
なぜ、今後も売れ続けるであろうスマートフォンやパソコンを例に挙げないかと言うと、近い過去を振り返る方が現在を考えるのに適していると、私は考えるからである。
今について考えるとき「それは昔の話では?」という事柄を例にするのは、「今まさに」と今思っていることが、ほんの数年先の未来の時点での感覚に当てはまるから。
『人の役に立ちたい』という未来に対する願望を考えるには、未来の視点を持つ必要があるからである。
もしここで、『人の役に立ちたい』と考え、人にとっての道具的立ち位置をよしとし、数年先の感覚ではなく、いまの感覚で未来について考える人がいたとしたら、私にとっては全てが理解不能な神秘に満ちた謎そのもの。だからこそ、人並み外れたロマンチストだと感じる。
しかし、ロマンチストとは、感情や個性、自由を尊び、自然との融合を望む者。私はこれに当てはまると自負している。
私にとって不可能に限りなく近く、不可解に感じられる『人の役に立ちたい』という感覚も、もしかすると、ほんの100年後には常識となっているのかもしれない。
そのくらいの夢想はしたい。
自分には理解できない事柄あってこその、この世の中なのだから。
本物のロマンチストに対しては、畏敬の念を抱いているから。