私、本当は森の水辺の生き物

言葉は、未来からの託け。

野菜のスープのクラムボン。

 

 


解凍したスープが、キャベツスープではなかった。冷蔵庫の冷凍引き出しにはあと2つ、スープベースのタッパーがある。

 


私は冬になると、数種類の野菜スープをよく作る。キャベツや玉ねぎ、パプリカ、マッシュルームなどを刻んで鍋に入れ、水なし弱火で加熱して、野菜の汁が出たあと水を入れ、そこからグツグツ煮詰める。元の嵩の半分から3分の1に凝縮された野菜スープを、多めの塩コショウで整えて、タッパーに小分けして冷凍する。


凍えそうに寒い時期、自分がパプリカ入りのスープを作った事を覚えている。その後しばらくして今月頭、キャベツしか入れていないスープを作った。そのキャベツスープを食べようと解凍したスープが、ひとつだけ残っていたキャベツだけではない方の野菜スープだったのだ。


冷凍ストックの野菜スープを食べる時、私はいつも魚介を入れる。鱈や牡蠣やイカ。バナメイ海老。水煮のサバの缶詰を使うこともある。スープの出汁として魚介はとても重宝し、具としての存在感の有無を問わず美味しくなると思っている。

 


そして昨日、水煮のアサリの缶詰を、まるごと汁ごとスープに入れた。

キャベツだけのスープの中で、アサリの粒が目立ったら、宮沢賢治の「やまなし」に登場する謎の存在、クラムボンに見えそうだと思ったから。

アサリはスープに入れると美味しくなると分かっている魚介であり、アサリは英語でClams クラムであり、クタクタに溶けたキャベツスープに泳がせたら、物語の光景に相応しい絵面になるかもしれない、その実態が謎に充ちたクラムボンの一例を出現させられるかもしれないと思ったから。

そう思って解凍したそのスープは、そのキャベツだけのスープではなく、川には見えない複数野菜の具の混沌。「やまなし」ではなくなった。

私の中でのクラムボンは、くっきりはっきり際立って、探すまでもなく見えている何か。というイメージがある。

 

野菜スープに入れたアサリの数々は、クラムボンを見る前の蟹の兄弟に思えてくる。それともクラムボンを見た後の出来事か、川ではないかもしれない。鍋の中かもしれないと。

私は昨夜と今晩、クラムボンを食べたかもしれないし、食べなかったかもしれない。

 

 

 

 

私は買い物に向いていない。

 

 

水色や黄緑色の背景にウサギの写真がプリントされた特大の折り畳み買い物バッグを、久しぶりに使った。ギュウギュウ詰めになったそのウサギバッグの中を探しても、ブラックオリーブスライスが見付からなかった。買ったつもりになって、実際には買わなかったに違いない。買ったものをそれぞれの場所に収納すべく、食材の収納引き出しを開けながらまた、パスタも買ったつもりで買わなかった事を知った。収納引き出しのなかにあるパスタの残りを見て「パスタまで買ってしまい、重複した。」と思いつつ、実際には買っていなかった、という複雑さ。

 

食材の買い出しは久しぶりだった。普段は毎週月曜日に、加入している組合の配達食材を届けてもらっているから。だけど私は、食材注文も頻繁に忘れる。週に1度だけネット注文するその行為を忘れるのだ。自分が食材の注文を忘れやすい事を自覚してからは、予約注文というのを始めた。毎週決まって届けてもらうものを選んでおくことができるシステムに頼ろうと思って。

卵やヨーグルト、納豆にハムなどを選んでいる、その予約注文に救われつつ、足りない分を今日の午前中買いに出掛け、ぼろぼろと買い忘れて帰ってきたのだった。


私は、買い物が得意ではないものの、すでに目の前にある食材を食べるのは得意で、引き出しを開けるのも床の蓋を開けるのも苦手ではない。すでに、手が届く場所にあるものを調理するのに向いていると思っている。


近い将来、You may also like this の表示によって、注文履歴にはなく私が好みそうな未知の食材がオススメされるようになることを心から願いつつ、いまのところはその都度、買い忘れたり買ったつもりになったりしながら、運良く手に取ったものだけを持ち帰り、食べることにしようと思う。


私は買い物に向いていない。

 

闊達な路地裏。

 

 

 

 散歩の途中、今まで知らなかった小道を発見し歩くことは、家の中に見慣れない扉を発見し、開けてみたら小部屋になっていたかのような胸の高まり。とまでは言い過ぎ。かも知れないけれど、そのほんの何割かは味わえると思っている。


 世界中の裏路地という裏路地。その全てを歩くことが出来るのだろうか?とたまに考える事がある。そこに山があるから登る登山家のように、そこに路があれば歩きたい。暮らしている街を把握したいとか、歩く事が心地よいとか、理由付けはできるものの、まず先にあるのは習性。性質や性癖といったものに限りなく近いのではないかと思う。


 裏路地の良いのは、整然としていない佇まいと道幅に対する親近感。人に伝える意図を感じない呟きのような原始的な生気。最低限の快適さを保つ程度に整えられた風貌。そのわりに人も車も少なければ、好ましい事この上ない。


 裏路地は大通りから始まっていて、裏路地が裏路地だけで成立することはほぼない。未だかつて見たことがないのだ。大通りの存在は無意識のうちに私を安心させ、私道ギリギリの路地にまで足を向かわせる。

 知らなかった小道を探しながら、私は整備された文明社会の威を命綱にして、混沌のフロンティアを求めているのかもしれない。普段暮らしている、見慣れた街の中に。期待に満ちた初めての旅先に。友人の暮らす観光地ではない市街地に。場に馴染む風貌に生まれついた事を良いことに、私は今後も歩き続ける。

 

習慣と目的。

 

 


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タイミングの良い散歩ができて満ち足りている。木々や花が綺麗に見える天気の日に、空気が澄んでいる午前の時間に、散歩をしようと思いつき、散歩ができる状況にあった。四つの要素が揃ってこそ実現した、良い散歩。

 



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こうして言葉にすると、如何にも大袈裟に思える。しかしながら実際のところこの世界に、公式的な「大袈裟」の尺度は存在しない。数値化する必要のない事柄である「大袈裟」という概念に、尺度を作り出す必要がないのである。


つまり尺度とは、必要性によって生み出されるもの。幼児から児童に対して行われる検診も、義務教育に於ける成績表も、偏差値も国内総生産も、すべては切なる目的ありきで作り上げられた人為の産物。現存する全ての人工物だけでなく概念も、すべては目的ありきで作られ、その目的が現代に於いて、個人に於いて、必要であるか?共感し得るか?という疑問を持つ事が大切だと私は思っている。

 


ここまで読んでくださった方は、今一度、尺度の必要性について考えていただきたい。

 

①あなたは何故、その尺度を必要としたのか。

②その尺度を満たす事によって得られる目標とは何なのか。

③その目標は尺度以外の判断で達成手段を選ぶ事ができるのか否か。

3つだけ。たった3つだけ、考えてみていただきたい。

 


ところで。私は脳内で秘密裏に選手権を開催し、優勝した。参加者は私だけであるため、点数の判定は複数の参加者に対して行われる相対評価ではなく、私の進化度合いによる絶対評価である。時期ごとの私が複数の参加者として存在する、と考えるなら、過去から現在にいたるまでの数々の点にいる私と、私'と、私''…を比べた相対評価である。


なんの選手権かというと、お洗濯もの。洗濯物をためこまず、スムーズに循環させることが出来たかどうかの選手権である。


スムーズな循環の基準には3点あり、1つめは洗濯物をためるランドリーバッグがいっぱいかどうか、その見た目の不快度。2つめは洗濯物干しで乾き上がった状態の衣類の放置度合い。3つめは引き出しやクローゼットから衣類を取り出す時、必要な衣類を手にするまでの速度である。すべては感覚的に判断され、3つの基準とその度合いは、時間差があるものの、比例して上がるため、選手権の判定は容易である。

ここ半年間で最高に快適な循環が保たれている今日、私は優勝した。

 


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タイミングの良い散歩ができて、とても満ち足りている。寒すぎず暑すぎず、散歩に最適な季節の到来だと思うと、とても嬉しい。

昔から散歩は好きだけど、今の私には散歩だけではなく、他の習慣もある。家の中ならバランスボールに座ったりプランクをすること。外なら水泳。これらの獲得した上での散歩なのである。

 

習慣はいくらあっても無駄にならない。全てを細く長く入れ替わり立ち代わり繋げて行えるから、安心につながるのである。一度身につけた習慣はなくならない。穀物や乾物のストックのように、必要とあらば切らしていてもまた思い出すのである。

黒豆とヒジキがほしくなってきた。

 


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繰り返される天地創造。

 

 

たまりにたまった紙の山。という課題に、昔から定期的に直面する。紙の山とは、古くは学校の授業でもらうプリント。またあるときはレシート。それから仕事の資料や自作のシフト表、それから経費の計算表。そして今は子どもが幼稚園で受け取ってくるお知らせのプリント。それらの山の事である。


私は知っている。紙を山化させているのも、山と化した紙を問題視し、課題化しているのも、ひとえに私自身の習性に他ならず、紙は紙単独では山にならず、山になったところで問題となるとは限らないという事を。


手元に舞い込む紙をため込む事自体は、私だけの習性ではない。ある人は、山ではなく雑木林のように各所に点在させ、またある人は住宅街に見る木々のようにそこかしこに分布させる。紙の数々を山化させる私とは異なり、彼らには山問題が起こり得ない。そこに山はなく、あるのは雑木林や街路樹なのだから。


私はその都度、眼下に山を眺めながら、そのなかにいるかもしれない稀少や過多な動植物の存在を逐一確認し、時おり山火事が脳内な浮かぶのを押し止め、手を進める。どう進めるかと言えば、稀少なものを確保し、その他の再利用の可否を判断、表裏に折り進める。分解され平地と化した元紙の山は、その風貌をがらりと変え、ひとまわりふたまわりサイズの小さな山、時に丘と生まれ変わる。


丘は時にノートとなり、メモ紙となり、そこが連鎖の最終地点。


手元に紙が舞い込む限り、私が手先を動かす限り、繰り返される天地創造。嗜好と習性は一体であり、信念も意味も不明である。

 

 

こちらの記事内にある写真のノートが、その生まれ変わりの一例。

 

 

『人の役に立ちたい』ロマンチストの方への手紙

 


『人の役に立つ』の証明は不可能である。厳密に言うならば、限りなく不可能に近い。証明不可能な事柄である『人の役に立つ』を求める事は、不可能の証明に挑む事に他ならない。不可能への挑戦はロマンへの憧れ。だから私は、人の役に立ちたい人というのは、並外れたロマンチストだと考えている。

 


①『人の役に立つ』がなぜ不可能かと言うと、私たち人間は時間の流れの中で生きている。自分がこの世を去った後の事を確認できない。だから、現時点では人の役に立っていても、それが時代の負の遺産になる可能性がある。というのが、まずある。


② タイムマシーンが実現し、自分がしたことの結果を未来で確認する事が出来るとする。しかしその場合、無数の時点を確認する必要があり、無数の時点を全て確認するのは不可能である。というのもある。


③『人の役に立つ』の確認時期を1点、本人が生きている間だけ、若しくは、数週間や数年、などに期間を限定するとする。この場合でも『人の役に立つ』が表す相手が限定されていない為、目の前の1人の役に立ったかのように見えても、その相手の周囲の人の役には立っていない可能性があること。それを確認するのは不可能に近い。というのがある。


ここまでの①~③は『役に立つ』の意味合いを定めなくても当てはまる事柄である。

 

 

次に『役に立つ』とは何なのかを考える必要がある。

いくつか挙げると、A. 人の心を満たす。B. 人に便利を提供する。C. 人の健康を促す。などがある。

因みに、『役に立つ』は英語で『Useful』。

英語を根拠の1つと考えて良いとすると、一番正解に近いのは B だと考えられる。

 

『役に立つ』とは『便利である』とする。

 

これを、『人の役に立ちたい』に当てはめるとこうなる。

『人にとって、便利な存在となりたい。』

『人に便利を提供したい。』


ここまでくると、『人の役に立つ』の証明が可能に見えてこなくもない。

「便利でした。」もしくは「あなたの存在が私にとって便利です。」その他、これと同じ意味合いの言葉を相手から得ることが出来たら、一応の証明はされる。と言える。


しかし現実には、これらの言葉を発する人は非常に少ない。同じ種類の生き物である人間に対して「あなたは私にとって便利です。」「あなたは私の役に立ってくれました。」という言葉以前に、そういった意を伝える事が良識として扱われないのが現代社会だからである。

『人の役に立ちたい』という概念がロマンそのものであるのは、不可能の証明に挑む事だけでなく、その背景となる世界も、現代的ではなくロマン派である。といった意味でも明白である。

 

 

さらに『便利』について考えていきたい。

便利とはなんなのか。

便利の基準は、人によって異なる。

なぜなら便利とは、目的達成への労力を省いたり、快適にするための手段だからである。

そして、目的も、省きたい労力も、何を快適とするかも、人によって異なる。

つまり、便利が何なのかを定義するのは不可能。と私は考える。

 


具体的な例を挙げようと思う。

自動車が良い例である。

自動車の所有は、日本国内では都市部ほど少なく、人口密度の低い地方にいくほど多くなる。地方にも様々あり、一家に1~2台ほどの所有が平均的な地域から、家族全員分(免許取得可能な年齢以上)の自動車を所有するのが珍しくない地域もある。

 

『移動に便利な自家用車』という文脈が成り立つ地域とそうでない地域がまずあり、次にどのような移動を便利と考えるか、というのが各個人にある。


バスやタクシーなどの利用も可能な地域に暮らし、徒歩や自転車での移動で日常的に体を動かす事をして健康を維持しつつ、必要な時だけ公共の乗り物を利用する。

といった個人にとっては、自動車は便利でないどころか、不要であり、持たされたなら負債にしかならない。

また、都市部の、地下鉄の駅と駅の距離が徒歩でも不便しない地域に暮らす人であっても、長距離の徒歩移動に不自由する体質や体調である場合、駐車場の使用代金がかかるとしても、無理によって生じる医療費や心身の苦痛による時間の浪費を考えると、自動車はとても便利で有益だと言える。


自動車は、ある人にとっては役に立ち、別のある人にとっては不利益となる。

 

実は、自動車を例に挙げたのには訳がある。

パソコンや冷蔵庫、洗濯機とは異なり、自動車は昔ほど多くの人にとって大人気の品ではない。

なぜ、今後も売れ続けるであろうスマートフォンやパソコンを例に挙げないかと言うと、近い過去を振り返る方が現在を考えるのに適していると、私は考えるからである。


今について考えるとき「それは昔の話では?」という事柄を例にするのは、「今まさに」と今思っていることが、ほんの数年先の未来の時点での感覚に当てはまるから。

『人の役に立ちたい』という未来に対する願望を考えるには、未来の視点を持つ必要があるからである。

 

 

もしここで、『人の役に立ちたい』と考え、人にとっての道具的立ち位置をよしとし、数年先の感覚ではなく、いまの感覚で未来について考える人がいたとしたら、私にとっては全てが理解不能な神秘に満ちた謎そのもの。だからこそ、人並み外れたロマンチストだと感じる。


しかし、ロマンチストとは、感情や個性、自由を尊び、自然との融合を望む者。私はこれに当てはまると自負している。


私にとって不可能に限りなく近く、不可解に感じられる『人の役に立ちたい』という感覚も、もしかすると、ほんの100年後には常識となっているのかもしれない。


そのくらいの夢想はしたい。

自分には理解できない事柄あってこその、この世の中なのだから。

本物のロマンチストに対しては、畏敬の念を抱いているから。

 

ワープの予行練習。

 


今日は普通に行動する。

他の人に話しても珍しがられない行動をする。という意味での普通に。何の話かと言うと、子どもたちを連れてのお出かけ。

先日は普通でない行動をした。他の人に話したら、相手によっては珍しがるかも知れない。という意味での普通でない行動を。その時も子どもたちを連れてのお出かけだった。

 

先日と今日とでは、私の行動が異なる。


どう異なるかと言うと、先日はお昼前に自宅を出発し、子どもたちをお出かけ先に連れて行き、私は帰宅、夕方再び同じ場所に出掛け幼い方の子どもを連れ帰り、上の子どもはお泊まりさせた。

今日は、子ども2人ともお泊まりなし。私も家とお出かけ先を2往復しない。

といった違いである。


自宅からお出かけ先までは約30km離れている。往復約60kmの所要時間が通常、約60分間。とても覚えやすいと思っている。覚える必要のない事に限って覚えやすい。そんな事ってありませんか?


60kmの距離に60分間で辿り着く為には、時速60kmで移動する必要がある。

しかし私は、予めそれを計画した訳ではない。自宅からおよそ30km離れた場所に行った時、たまたま30分で辿り着いただけなのである。


自分が、平均時速60kmで移動した事を知ったのは、それをした後のこと。


因みに、私は60分間ぶっ続けで平均時速60kmの速さで走ることが出来ない。目指すつもりもない。ヒトという生き物にとってそれが不可能であると知られている以前に、私は時速60kmで走るヒトに魅力を感じないからである。すごいかどうかより、安全性が気になるからである。実現可能性と嗜好と欲求が一致していて、本当に良かった。


私はヒトで、平均時速60kmで60分間で走る事が出来ないにも関わらず、平均時速60kmで30km離れた場所に辿り着き、今、実際にここに居る。


これを読んでくださっているあなたは、この話に疑問を抱かないであろうと、私は想像する。

何故なら、この社会には自動車が流通しており、自動車の利用が珍しくはないから。自動車の存在が珍しくない事を、私は経験上知っている。

しかし自宅から30km離れた目的地を、1日2往復する事を珍しく思う人はいると思う。30km先の場所に30分間で辿り着く事を不思議に思う人も、いると思う。


個人の普通と、可能かどうかの事実と、地域やコミュニティごとの常識と、社会常識と、世界の平均は全て異なる。


あなたは何を意識しますか?