私、本当は森の水辺の生き物

言葉は、未来からの託け。

正式名称は、エレメンタリーバックストローク。

 

 

 9月の頭から週に二度ほど、私は、暮らしている市の隣の市が運営するスポーツ施設のプールで泳いでいます。水泳が習慣となってから、元々あった体の機能が復活しているように感じています。

 開発ではなく復活は、懐かしくもあり心強さや新鮮さもある、とても愉快な状況です。自分事でありながらも他人事を楽しめむかのようなこの状況はまるで、何年もの間、その活動を休止していた音楽グループが活動再開を果たしたかのような感覚。

 

 

 活動再開でまず始めたのは、以前できたことの確認です。 クロール、平泳ぎ、背泳ぎを一通り泳いでみて、前と同じようにできることを確認し、ひとまず安心しました。ブランクを経ても変わらないどころか、心なしか以前よりも楽に泳げるような気がするのは、以前よりも脂肪がついたからかもしれません。

 体の重さに対する体の嵩が大きければ大きいほど、つまり体を占める脂肪や体内の空気が多ければ多いほど、水に浮きやすくなるわけです。

 

 そんな、以前よりも水泳に適した体を得た私は、より気持ちよく水に癒やされようと、どの泳ぎ方が一番ラクなのか、試してみることにしました。 イメージとしては、地球で最も低い場所にある塩の湖、死海に浮かぶ感じです。塩の濃度がとても高く、地面に横になる感覚で水に仰向けになって、本を読むことも出来ると言われている死海。いつか行ってみたいものです。

 

 

 そんな死海ほどではないものの、背泳ぎの享楽にハマりゆく私がいま、一番気に入っている泳ぎかたが、仰向けの背泳ぎの姿勢でする平泳ぎ。

 

 仰向けで浮かんで、平泳ぎのように、開脚から閉じるカエルのような動きをする足の動きだけで進む泳ぎ方を思いついてやってみたところ、どの動きよりも一番ラクなことに気づきました。

 その仰向け平泳ぎをしていると、脱力している手も自然に動くのです。クラゲのように、イカのように泳ぐこの楽しさ。 こんなに楽で愉快な泳ぎ方が、なぜ有名じゃないのか?少なくとも私は、習ったことがありません。どの泳ぎよりも真っ先に習っても不思議はないくらい便利な泳ぎ方なのに。。。

 と思って調べたら出てきました。 エレメンタリーバックストロークと言うそうです。エレメンタリーと言うからには、やはり基本であることは確かのようです。 ただ、市民プールなど行ったことのある人なら分かると思うのですが、背泳ぎというのは、意外と流行っていません。一番多く見られるのはクロールです。半数以上の人がクロールで泳いでいるというのが、いままで5ヶ所ほどのプールで見た私の感想です。その次が平泳ぎ、そして背泳ぎはたまに見かけるくらいなのです。

 息継ぎの必要がないというだけでも便利な泳ぎである背泳ぎ。一番最初に習う泳ぎではないのもあってか、エレメンタリーと名がついているにも関わらず、サバイバル向きであるにも関わらず(※)、意外と流行っていないのです。

 なんということでしょう。

 

 エレメンタリーバックストロークという、きちんとした名前がついていたということだけでも、ここにお伝えします。 (※ エレメンタリーバックストロークは、サバイバルスイミングでは教えられているとのこと。)

 エレメンタリーバックストローク。ちゃんとしています。名前はとても大切。名前がつけられているということは、そのものを認識したい人が大勢いるということ。つまり認められているということです。

 

 

 仰向けバタ足に名前がついていた事を知って、とても安心したところなのですが、私には他にも名前をつけたい泳ぎがあります。それは手だけ動かす背泳ぎ。

 仰向けになった状態で足を閉じて伸ばしたまま手だけを動かす泳ぎかたを、今日、してみたのですが、これは楽というより愉快です。足が自然と左右に揺れて、まるで自分が魚になったかのようや気分が味わえるのです。水の中で魚に一歩近付いたかのようなこの愉快さ。名前をつけて愛でたくて堪らなくなっています。

 

 

感情のアソート。

 

 

 幸せとしか言いようのない瞬間、私は同時に底知れない孤独に見舞われる。

 まだ終わらせてはもらえない、安心しきってはならないとばかりに、せき立てられるような気持ちになる時がある。一体、どうしてこういつもいつも私の幸せは、その持ち主である私に対して厳しいのか。一見平凡かつ魅力的に見えるのに例外ばかりが書き連ねられた契約書というものがあったなら、私はそれにサインしてしまったのかもしれない。

 こんなことを気にしているのは私だけで、幸せと孤独の綯い交ぜを人は通常、分けずに混ざったままに飲み込んでいるのだろうか。

 ぶ厚く甘い生地に包まれた一欠片の苦味を、舌で探し当てるようなことをしているような気がしないでもないけれど、気付いてしまうものはしかたあるまいと思う。 それからまた、甘さを際立たせようなどとは望まないのに、スイカに塩を勝手にかけられてしまったかのような気分にもさせられるこの幸せの味わいに、私はまだ慣れることが出来ていない。

 

 

 それは例えば、我が子を大笑いさせた時の充足感の中に際立つ一抹のむなしさ。

 就寝前の娘に、シリーズ化している私の口からでまかせ物語をせがまれて、まともなネタも思いつかぬまま、登場人物(動物)の日常のエピソードだけを話し、ちょっとした奇行のネタで爆笑を得たようなとき。

 

 たとえばこんな感じに。

“カワイイ子鹿は、はたと思い立ち、小さなトラの尻尾を引っ張ってみました。すると尻尾はするんと抜けてしまいました。しかし、小さなトラは尻尾が抜けたことに気づかずキョトンとしています。” 

“困り果てた子鹿が、恐る恐るトラのお尻を確認すると、いつの間にか新しい尻尾が生えているではありませんか!しかもさっきと少し柄が違います。”

 私の適当が娘にとっての重要な、密度の濃い時代の一部に書き込まれてしまうという緊張。娘の世界の一部を担っているという重圧。私の口から発せられる言葉の、話の、適当さや考えなしに対して不釣り合いなくらいの好反応に、私は度々恐縮している。

 

 それから、息子を抱きしめ、抱き上げるとき。娘を抱きしめるとき。

「こんなに可愛い子を抱っこできる人生で良かった、今まで、ここまで生きてこれて良かった、ああ、抱っこしやすい、可愛い、抱っこしやすい、撫でやすい、ありがとう、かわいくなくたって可愛いのに、かわいくて可愛いだなんて、かわいい!!本当にありがとう、いつもありがとう、幸せでいさせてくれてありがとう。」と日常的に感極まりながら、この半分だったり、二倍三倍だったりを言いながら心に感じる孤独や怖れは、一体なんなのか。

 なんと勿体ない感じ方なのだろうかと思う。充足と欠乏が、一瞬のズレもなく同時に押しよせてくるこの感じを例えるなら、大勢のいる前で称賛され、拍手を受けているまさにその時に横から聞こえてくる陰口のようなもの。せめて時間差にしていただけないだろうか、甘いものはひたすらに甘く、苦いものは分けて飲ませていただけないだろうか、と願うのは私だけではないはず。

 

 

 アソートというのは、各種商品の詰め合わせセット。商品の種類を選べない発注であり、小売店での販売方法のことを表し、お正月の口の閉じた福袋もその一種である。

 

 私の感情の抱合せが、私自身に選べないのだとしたら、一体誰が選んでいるというのか?人生のなかでベストを争うような好感情のなかに別のものが混ざり込むことに、私は物心ついてから今に至るまで、ちっとも慣れることが出来ていない。

 

 

濃紺。

 

 

 

 好きな色と一言で言っても、その好きの内側には様々な気持ちや考えが含まれている。

 

 

 顔色が映えるから黄色が好き、休みの日の気分が味わえるから黄緑色が好き、汚れが目立ちにくいからベージュが好き、といった便宜的な意味合いの強い好きもあれば、つい触りたくなるサーモンピンクや美味しそうな赤茶色のような五感への刺激に依存した好きもある。これらは、完全に分けられるものではないものの、大まかには理性による好きと感覚による好きとして区別できるのではないかと思っている。

 そして私は、大人が好きな色を尋ねられて即答できない場合について、感覚的な好きを答える事に抵抗を感じていたり、その人にとっての便宜の色と好きという言葉が繋がらないのではないかと想像している。

 

 いかがなものでしょう?

 

 私自身、一色だけ選べと言われたら、おそらくとても迷うと思う。

 身に纏い自分を包む為の色なのか、手に持つような部分的な色なのか、部屋の壁紙のように間接的に接する色なのか、といった用途の存在する色かどうかの確認からはじめたくなるに違いない。

 色に関してほど、前提を確かめずなんとなく選ぶ事に抵抗を抱くものは、そうない、と私は感じている。色ほど最適を選びたいものは、そうそうない。

 

 そんな、色に関して神経質とも言えそうな私の好きな色は、トマトの赤、サッカー日本代表のユニホーム(2010〜2011)の青、そして濃紺。気分によっては真紫が加わったり外れたりといったところ。 即答できる色もあるにはある。

 これらの色は、私の理性と感情を超越、ないし掛け合わせのようになって好きな色として存在している。意味がありすぎるぐらいある個人的な色達について、読んでいただけますか?

 

 

 

 まず、赤は私の最初の色。

 物心ついた頃に自分が主体的に選んだのか環境によって馴染んだものなのかは、もはや分からなくなっている。私の母は未だに、私の色は赤、一番似合う色と言っている。赤い服ばかり着せられていた訳でもないところからすると、母は決めつけが激しくもその場の状況に柔軟であったことが、色一つ取ってもよく分かる。

 標準を遥かに下回る身長体重に、標準外の体の弱さ、赤ちゃん型ロボットかのようによく喋る子どもだった私に必要な、元気の色として、母は私に赤を与えたかったのかもしれないと想像している。

 

 青は大人になってから。

 もともと思い入れがあったというわけではなく、ある時唐突に気になり出した色だった。何気なく触れたくなった青色の服を、そのまま顔に当ててみたら似合った。

 その頃私はまだ実家ぐらしで、青を着た私を見た母は、青が似合うの?似合うのね。でも赤も似合うのよ。と言っていたのが未だに印象に残っている。

 青が母性の色だと、何かで読んだのはだいぶ経ってからのこと。実際、私の娘は私が青を着ることをとても好んでいる。母性と関係があるのかは分からない。

 

 赤と青、私が出会った人たちに聞くと、驚くほどの賛否両論を得ている。賛否とは言っても、気を使ってなのか本当なのか、どちらかを否定される訳ではなく、「青いいね、、でも私は赤の感じが好き。すごく強く見えてあなたらしいから。」「赤も悪くないよ。でも青だな、しっくり来るし自然だから。」といった感じ。とある淡いピンクやカーキ色に対する「無言」や「それ?」といった評とはだいぶ違う。私は、正直者に出会いやすいのかもしれない。

 

 赤も青も、手段でありつつ、出会ってきた人の存在が濃厚に絡まっている色であり、私の人生の時間と一体化した色であると思っている。

 赤や青ほどのレギュラーではない真紫は成人式の着物の色。サムライ・ブルーに限りなく近い群青色は七歳の七五三の着物の色。そしてこの二つ、真紫と群青色は私の娘の好きな色でもある。相談した訳でもないのに、着物を見せてから言い出した訳でもなく、彼女は生まれながらに幼児らしからぬ色を好むから、私は尚更、意味を見出したくもなる。

 時間の流れの不可逆は、単なる社会通念に過ぎないのではないかとすら思えてくる、時間軸と一体化した色の存在。

 

 ここに付け加えなければならない、濃紺という色がある。

 

 心落ち着く安心安全、懐かしき癒やしの色、と言えば、濃紺が私にとって個人的な色であることが伝わるのではないでしょうか?

 私にとって濃紺は、世にある制服の色でなければ就職活動の色でもない、日常の一歩先、背伸びして身に付ける鎧の色であり、着飾る色でもある贅沢の色。誤解排除の色であり、主張の色でもある濃紺。 そして煮え立つような感情の起伏をエレガントに整え、保つことの出来る、父の背広の色であり万年筆のインクの色。 手段でありつつも感情と密接な、特別な色なのです。

 

 

仰向けバタ足という享楽。

 

 

 

心地よい秋になりました。

一日のなかで気温のメリハリがあるお陰か、体全体の緊張と弛緩も感じられるような気がします。 季節の体感とでも言うのでしょうか、それをはっきりと感じるようになったのは、泳ぐようになったからかもしれません。

 

今月、9月の頭から週に二度ほど、隣の市が運営するスポーツ施設のプールで泳ぐようになりました。

子どもが2人とも幼稚園に出掛ける日に、自分一人で時間を使えるようになったので、ずっとしたかった事の一つである水泳の再開を決行したのです。

 

小学校低学年から、親のすすめで通い始めたスイミングスクールで習ったことが今も役にたっています。バタフライを習う前に、別の習い事への変更で辞めてしまったスクールでしたが、大人になってから愉しむ為の体験としては十分だったと思っています。習わなければ泳げない大人に仕上がっていたかもしれません。お風呂で顔に水がかかることすら怖かった、慎重で臆病の標本のような子どもだった私に、必要な習い事を選んでくれた母には、感謝が尽きません。親が教えようとしてうまくいかなくても、第三者からの働きかけなら抵抗なく受け入れられる、というのは世の常なのでしょう。

その後、大人になってからも時折、時間を見つけては、場所を見つけてはゆるく泳いでいた私ですが、ここ5年以上のブランクを経て定期的に泳ぐようになり、改めて感じた水の中の心地よさ、懐かしさをも含む得も言われぬ安心感に、今日も心満たされて来ました。

 

 

大好きなのは平泳ぎ。息継ぎが楽なのと、手足の動きが交互なのが合っているのかもしれません。体全体を大きく伸ばし縮める収縮運動も好ましく感じます。

その収縮を素早くして前に早く進むこともできれば、可能な限り遅く、沈まない限界までゆっくりと動く、という遊びもできます。

息継ぎは自ら顔を出すだけなので耳に水が入る心配も少なく、安心して泳ぎ続ける事ができます。いざとなったら、水の上にずっと顔を出しながら游ぐことだってできます。

 

そんな、大好きな平泳ぎをしつつ、時折歩くコースに回って休みながら思い出したのが背泳ぎの存在でした。

そういえば、私は背泳ぎも好きだったことを思い出したのです。

 

平泳ぎよりも息継ぎの楽な、というより、息継ぎ不要な背泳ぎ。

クロールもできなくはないのですが、鼻や耳に水が入りやすく、癒やしとはほど遠い泳ぎだと思っています。一般的にはどうなのでしょう?スピードは出しやすいため、人が泳ぐのを見ている分には素敵だと思うのですが、いざ自分が泳ぐとなると、驚くほど疲れてしまうクロール。手足の動きが交互ではなく、同時にずっと動かしっぱなしなのが理由ではないかと思っています。ダイエットには良さそう。

 

どうしても楽な方を、気持ち良い方を、という基準で選び、平泳ぎや背泳ぎをしながら、さらなる楽を求め、気づいたのが、クロールのハードさの逆についてです。

 

「手足同時が大変なら、どちらかだけにすればよいだけでは?」

と思い、そこからは消去法でした。

足だけの平泳ぎは息が吸えないから却下、ビート板を使えばあり。手だけの平泳ぎはあり、前を泳ぐ人に追いつきそうな時の減速の調節に便利。手だけのクロールは、方向がわからなくなり易いから保留。そして最高に気持ちよかったのが、背泳ぎの足だけでした。

手は進行方向である頭の方にバンザイの形で伸ばしてみたり、水の中、背中の後ろで組んでみたりなどしています。水のなかでただ浮くという状態に一番近い脱力が得られたのが、仰向けのバタ足です。クロールの手足を静止した状態の伏し浮きも好きなのですが、私は生憎、肺呼吸のニンゲン。ずっとその姿勢ではいられないのが難点です。

 

まだ試していないのが、背泳ぎの手だけ動かすものと、背泳ぎの足を平泳ぎのようなカエルの動きにするというもの。

果たして出来るのか?ひと目が気にならない程度には無難な姿かどうか? 人の少ない時間にでも、やってみようと思っています。

 

美しい魚のような早い泳ぎを目指すのは、もうちょっと先になりそうです。 仰向けバタ足の享楽に、ちっとも、慣れてしまいそうにありません。

 

 

 

後日、魚に一歩近付きました。

 

連想式ごはん作り。



 

昨夜は、具だくさんの豚汁を作って食べました。 今朝はバナナと、残り物のピザを一枚、魚焼きグリルで炙って食べ、早めのお昼ごはんにはどんぶり一杯のサラダと、ひじきのニンニク炒めを食べました。 とここまでが連想式ごはん。

 


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これ食べたいあれ食べたいといった、食の欲求が連なって、調理の流れも次の時間の食事へとつながっていく感じに満ち足りた気持ちになりました。

 

 

昨日の夜に食べた具だくさん豚汁。


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最初、漠然とお味噌汁を作ろうと思い立ち、大根を切り始めました。

 

 

温かいお蕎麦を食べる感覚の千切りの大根を思い浮かべながら、7センチほどの長さにザクザクと切り分けていたところ、頭の中がすっきりとしません。

いつもなら順序よくトントン拍子に次の作業が浮かんできて調理が進むはずが、なぜか次の作業が思い浮かばないのです。そのうえ、大根を千切りにする気が起きず、手が止まってしまいました。2秒ほど考えたところ、大根を千切りにではなくてコロコロとした舌触りの形にしたくなっていることに気付きました。

 

真っ先に思い浮かんだ切り方はサイコロの形。でも、冷蔵庫から取り出して準備してあるシメジの形に馴染みそうもありません。シメジを刻んでしまえばサイコロ状の大根とうまく合うかもしれませんが、今回、シメジを刻むつもりはさらさらなかったのです。

そこで採用された大根の形は厚めのいちょう切りでした。

 

この調子で、その都度それぞれの食材を眺め、その都度扱いを決定し出来上がったのが豚汁でした。

フライパンで焼くつもりだった豚肉は図らずも大根たちの鍋に収まってしまい、豚肉に取り残されたピーマンは冷蔵庫の野菜室に引き返し、ピーマンの出戻りと共に発見された人参やゴボウが遅れ馳せながら参加し、どう見ても豚汁にしかみえない、食べたら豚汁としか思えない食べ物が出来上がりました。

 

不本意ではありません。

私は、「そうか、私は豚汁が食べたかったのだな。」と目の前に出来上がった豚汁を見てようやく実感したのです。

 

 

 

翌日の朝起きて、冷蔵庫を開いて目についたのは、小ぶりのバナナの房と、アルミホイルに包んであったピザでした。そして、目についたそれらを取り出して食べる事にしました。

 

私は、視界に入るということは自分が欲しているということ、と考えています。

そのため私は、意図的に避けたい食べ物は視界から外すようにしています。好きなものなら好きなほど確実に目を留めてしまいますし、そうなったら食べすぎるのが目にみえているからです。

それに、好物は視界から外しても思い出して取り出してしまうもの。

簡単に手に取れるから食べたいわけではなく、普段の思考の一部となっているのです。忘れようがなく食べすぎ注意のものは手に取りにくい場所に置いておくのが一番。

そう思い、早めに食べようと、わかりやすい場所に置いてあったピザを取り出しながら目にしたのは蓋付きガラス容器のなかのサニーレタスでした。

だいぶ前に洗ってちぎってあったものです。傷みやすくて早めに食べたいからこそ、残り物のピザと同じく見えやすい高さの棚の手前に置いておいたのです。

気になってしまったからでしょう。お昼ごはんが早めとなりました。いつもなら、なにかしている最中に何となくの体の異変に気づき、その原因が空腹だと判明し、慌ててお昼を食べるのが午後3時前だったりするのですが、レタスが気になった今日のお昼は11時半でした。 茹でてざっくりとさいてあったササミをさらに細くさき、冷蔵庫のなかの目に付きやすい場所で待ち構えていた、昨日の残りの輪切りのオクラや、もっと前の千切りキュウリ、一つだけ残っていたトマトを乗せたサラダを食べました。

 


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カラフルにはなっているけども、なにかが足りない、、、黒だな。ブラックオリーブがあったら完璧だった。。。それにしても、黒い食べ物が食べたい、そういえばヒジキがあったはず!ヒジキ食べたい!晩ごはんの時間に見送ったら忘れてしまうかも知れないし、疲れていたら面倒くさくなってしまう。。。

 

と思ってサラダを食べたラーメンどんぶりを洗ったその器に、乾燥ヒジキをパックから取り出して入れました。一連の流れで動いてしまったほうが楽だからです。

 

出来上がったのが、ヒジキとササミのペペロンチーノ未満(唐辛子ぬき)です。


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昔から気に入ってよく作っていた、このヒジキのペペロンチーノ、ササミと和えたのは初めて。簡単に思いつきそうなのにしたことの無かったことって、意外とあるものですね。

 


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夜ごはんは安心。

豚汁がまだたっぷりあるからです。

 

食材の使いみちがサクサクと決まると、満ち足りた気持ちになります。 ささやかで地に足ついた満足感が得られた日です。

 

 

無計画の賜物、不便が生む贅沢。



 

遠足以上、旅行未満のお出かけをしました。 車で往復7時間、自宅から北上南下のシンプルな道中です。

 

 

四連休の後半二日間、2歳と5歳の子どもを連れて出かける事を決定したのは、前日夕方の六時のこと。大まかに思い浮かべていた、行ったことのない複数の遊び場のうち一箇所に目的地を定め、Google Mapで周辺のホテルを探し出し、電話予約をしました。

 

旅行代理店経由のネット予約のできるところはどこも一杯。まれに空きがあっても印象のふるわないところしかありませんでした。当然といえば当然、繁忙期なのですから。

 

そんな中、ざっと見て印象のよいビジネスホテルを発見し、私はほくそ笑みました。というのも、素晴らしい対費用効果を持ったホテルの匂いを醸し出していたからです。あとは電話で判明するはず。ホテルの全身全貌の中の上澄みのキラキラの最重要外見部分とも呼べる(と私が決めてかかっている)ホテルフロントの対応が、その宿泊の集大成を予言する、というのは経験則。

今回もその安心感と共に過不足なく過ごすことができました。


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─飯能第一ホテル/ツイン(B)11,200円、和洋食3人前2,400円/2020.9.22 現在

 

 

 

保護者一人に対して幼児が複数という組み合わせは、選べる行動が限られます。

というのも、例えば遊園地の場合、年齢や身長制限があり、メンバーそれぞれが遊べるアトラクションが限られるだけではなく、保護者付添を要するアトラクションも全て却下という残念な事態になりかねないのです。

乗り物に付き添う保護者とアトラクションに乗れない幼児に付き添う保護者が、分身できないからです。

私が今よりもさらに無計画の権化のような人間だった時代、何度やらかし、何度分身の術を望んだか、思い出しきれません。

その頃よりは学習し、現在では、居合わせたメンバーの最大公約数的な目的地を選ぶようにし、その最大公約数的な楽しみ方に注目するようにしています。

 


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トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園(公式Facebookあり)

 

 

個々の愉しみは想像しつつも計画に入れようとしないこと。旅先で早朝の街を散歩したりしたいものですが、そもそもがそれ用のお出かけではない、と目的をはっきりと意識できるようになってからは健やか。

 

 

 

さて今回、一番の収穫、無計画の賜物は交通渋滞でした。

巷に暗に存在するライフハック、同行者を帰したくなくてワザと渋滞にダイブの術、などのR指定的賜物ではなく義務教育的賜物がありました。

行き帰りの所要時間の差がまさにワームホールの様相だったのです。

 

車で往復7時間、自宅から北上南下のシンプルな道中、その内訳は往路5時間強、復路2時間弱でした。渋滞のあるなし、一箇所集中とはいかなるものか、これを体感するには充分な違いがありました。

言葉ではその不便さや不快感、快適さや爽快感を説明することが困難なうえ、計画して体験したいような類のイベントではないと思います。

 

私だって渋滞は苦手。後部座席で巻き起こる数多のこぜり合いやいななき、嘆願に懇願に絶叫にその都度反応しながらとなると尚更です。今回見舞われて良かった。。。

より体力を使い、心身ともに鍛えようとしているこの時期で良かった、近場の気軽な、ほぼ直線ルートのお出掛けの時で良かった。そう感じています。

 

快適さを追求し、今の今まで、土日祝祭日に休まず自分で日程をたてられることを基準に仕事を選んできた私ですが、課題は尽きません。自分の子どもたちに色々な体験をさせたいと思っているのが、その文字どうり有意義に色々な体験となっているようです。

 

その都度の最善、最高を、というのは私の通って来た道。 子どもにはいち早く、拘り抜く高揚感というステージへとたどり着いてほしいもの。 時代によって、人によって、経験の順序は、異なるような気がしています。

 

 

首が長くなってきた。

 

 

 

突然ですが、あなたの首は長いですか? それとも普通?短いですか? 実はわたしは、以前は首が短かったです。

なんとなくなのか「首が長くていいね。」と言ってもらえることもあるのですが、実際には長くないどころか、いまだかつて首が長かった試しがなく、私は自分は首の短い人間だと思っていました。

 


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生まれて間もない頃からの、小児喘息歴がとても長かったのですが、ある時『喘息だと胸筋が付きにくいため、呼吸を守るために首周りの筋肉が発達する傾向にある。』とどこかで耳にし、すごく納得したのを覚えています。

納得はしたものの、「でも、もうちょっと長いほうがいいのにな。」と思ったものです。首元の詰まった服を着てもすっきりと見えたら素敵だな、とおもいつつ、自分が着るとすっきり見えないため、首元も詰まった服は避けるようにしていました。 そして、四六時中気にするほどの事でもないので、あまり考えることもありませんでした。

 

それが、この記事のタイトルのとおり、長くなってきたのです。

 

なぜそれに気付いたかと言うと、首元の詰まった服を着ていたときに、 「あれ?おかしくなくない?」と思ったからです。 避けていたタイプの服のはずなんですが、今年の春頃なにを思ったか、鎖骨も見えないくらい首元の開いていないTシャツを二枚購入していて、自分でも不思議に思って、「うっかり買っちゃったのかな?」「色が好みだったんだっけ?」などと思いつつ気にせず着ていました。

気にせずに着てみて、最初に着たときは、 「あ、やっぱりちょっとすっきり見えないな」と思ったのが、最近「あれ?苦しそうじゃなくない?」となって、ようやく気付いたのが自分の首の長さでした。

どう考えても、以前より長くなっているのです。

 

それ以外にも、どう考えても前より体力ついてる?とか、全力でダッシュしたのに息切れしないのはなぜ? などと、理由のわからない快適さを、他にもいくつか感じていて、 はたと気付いたのが、プランクでした。

プランクというのは、腕立て伏せのポーズをキープするもので、体幹が強くなるそう。 それを、昨年の夏から日々、夜寝る前に一回だけしているんですが、 まさか、それだったりして? と気づきました。

なるべく長い時間、そのポーズをキープする、というのを続けているのですが、次の目標は四分半、三分以上はキープ、というのが現状です。 一番最初にプランクをしたときは、14秒しか続きませんでした。 それが今、三分強出来るようになっているということは、もしかすると既に何かが変化しているんじゃないか?と思えてきたのです。

生まれてこのかた、腕立て伏せは苦手ですし、無酸素運動の類いも一切したことがなかったのが、唐突に去年からはじめたので、私的には、なかなか重大な事だったんじゃないか?と考えました。 腕立て伏せやプランクは、体幹も強くなるそうですが、たぶん腕や胸の筋肉も使うと思います。 そしてたぶん、以前よりは使えていて、使えるということは筋肉がついてきていて、だから、首周りの筋肉が不要になったのでは? と思い当たりました。

首周りの筋肉が、肺や呼吸器を守る胸筋の代用だったのなら、胸筋が事足りれば不要になるのもおかしくないわけです。 つまり、首が短く見える場合、その原因が喘息や呼吸器のトラブルだったなら、胸筋を鍛えれば解決すると可能性が高いと言えます。

ただ、喘息などの場合、発作の起きているときや起きやすいときは、息の切れる運動そのものが、時に歩くことすらNGとなるため、鍛える機会が持ちにくかったりします。

発作を起こさずにいられるだけでも万々歳、と考えていると、首が短く見えることにまで意識がいかなかったりしますし、意識したところで、それをどうこうしようとまでは思わなかったりすると思います。

 

あとから考えて、理由がわかる事がある、というのを強く感じました。

 

 

昔から「首を長くして待つ」という表現がありますが、「首が長くなってしまう」ではなく「長くして待つ」というのは、なにかしながら、体を鍛えたり何かに精進しながら、目的の事柄に備える、という意味なのでは? とまで思えてきました。

強引すぎる解釈かも知れませんが、「首を洗って」とか「小首をかしげる」など、首の出てくる表現は他のものも、なんとなく意図的に感じられるのは、私だけでしょうか?

 

そんなわけで、私は、図らずして首が長くなってきたため、何かを待っているのかも知れません。

 

どうにも個人的になのか、世間的に言われる順序とは逆向きにことが進むことが多いです。

 

そんなわけで、 首を長くしたい方は、ぜひ、腕立て伏せやプランクをしてみてください。 ちなみに、私はきちんとした腕立て伏せはまだまだです。 そのうち、知らぬ間に腕立て伏せも出来るようになると思います。 

なぜなら、さっき試してみたら、以前は腕を曲げられなかった腕立て伏せが、床スレスレまでではないにしろ、床までの半分くらいの距離まで、胸を近づける事ができるようになっていたからです。

 

関連する事柄が、連なって知らぬ間に色々と出来るようになるのではないかと思います。

そんなのは常識だ!と思うかたもいると思います。

でも、大人になってから気付くというのも、なかなか新鮮です。

面白いものですね。